カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)
復活したイエスは静かです。まるで何事もなかったかのように、受難の苦しみが嘘であったかのように静かに弟子たちのもとを訪れます。
しかし受難があったのは厳然たる事実で、受難がなければ復活もなかったのです。
十字架の苦しみの絶頂にあったイエスは自分の復活を予知していたのでしょうか。
もしそうであったとすればそれは単なる茶番劇であり、真の意味で受難ではなかったでしょう。
受難とは誰からも見捨てられて、絶望の淵に立ち、自分が神の子であることも忘れたような状態だったのです。
苦しみの黙想なしにキリスト教の霊性はあり得ません。
しかしキリスト教以外でも、歴史を通して苦しみ、挫折、試練に意味を見出して人生を究めようとした人たちも多かったのです。
中国の思想家孟子(紀元前372頃-289頃)の「告子章」の中に次のような箇所があります。
「舜(しゅん)は田畑を耕す農夫から身を起こして、ついに天子となり、傳説(ふえつ)は道路工事の人夫から挙げられて武丁(ぶてい)の宰相となり、膠膈(こうかく)は魚や塩の商人から文王(ぶんのう)に見出され、管夷吾(かんいご)は獄吏の手に囚われた罪人から救い出されて桓公(かんこう)の宰相となり、孫叔傲(そんしゅくごう)は海辺の貧しい生活から楚(そ)の荘王(そうおう)に取りたてられて令尹(れいいん・楚の宰相)となり、百里渓(ひゃくりけい)は賎しい市民から秦(しん)の穆公(ぼくこう)に挙げ用いられて宰相となった。
故に、これら古人の実例を見ても分かるように、天が重大な任務をある人に与えようとするときには、必ずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動を失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。
これは天がその人の心を発奮させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするための貴い試練である。
いったい、人間は多くの場合過失があってこそ、はじめてこれを悔い改めるものであり、心に苦しみ思案に余って悩みぬいてこそ、はじめて発奮して立ち上がり、その煩悶や苦悩が顔色にもあらわれ、呻き声となって出てくるようになってこそ、はじめて解決の仕方を心に悟るものである。国家といえどもまた同様で、内には代々法度(おきて)を守る譜代の家臣や君主を補佐する賢者がなく、外には対抗する国や外国からの脅威がない場合には、しぜん安逸にながれて、ついには必ず滅亡するものである。
以上のことを考えてみると、個人にせよ、国家にせよ、憂患(しんぱい)の中にあってこそ、はじめて生き抜くことができ、安楽にふければ必ず死を招くということがよくわかるのである。」
歴史を通して人間を導く神は、多くの試練を通してこそ人生の意味を人間に教え、やがてその試練を感謝に変えて、人生の道行きの末に、最も完熟した品格を備えて、信頼の内に魂の故郷へ帰ることを望んでおられるのです。
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